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大蓮公園内の登り窯跡 |
漢人(あやひと)泉北の丘陵地帯を含めたこの地域は阿羅伽耶の人々によって開拓され、その指導者は阿知(「阿智」とも表記)という名であったと言いました。ただ阿羅伽耶の人ばかりではなく百済からの移住者も多く、例えば高志氏(行基さん出身氏族です)などの百済人たちは今の高石市、蜂田氏は今の家原寺あたりに居住し、高志氏は【高石、高師浜】に、蜂田氏の名は【八田】という地名に痕跡を残しています。
百済と安羅伽耶の関係も探っていけば面白いのですが、ここでは言及しません。ただこの主従関係とも言える朝鮮半島での構図が、そのまま日本列島にまで引き継がれ(百済が主、安羅伽耶が従)、百済高官の蘇我満智(木劦満智、蘇我氏の祖)、そして蘇我氏への、漢人の従属となるのです。が、それはそれとして。
先にも言いましたように漢人は飛鳥の原動力でした。今の大阪府堺市南区から奈良県明日香村に引っ越したわけですが、こちらに残留した組もあって、以降、阿知とともに飛鳥に行った組は、東漢人(やまとのあやひと)、残留組は西漢人(かわちのあやひと)と呼ばれるようになりました。
子孫の坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ、征夷大将軍として有名な坂上田村麻呂のお父さんです)は、朝廷に宛てた上奏文の中で、『高市郡(飛鳥のこと)の中で自分たちと同姓(一族)でない者は、十人中一、二人』と言っています。つまり飛鳥の住民の中で漢人(つまり阿羅伽耶移住民の子孫)が80〜90%で、土地が狭くなっているから新たな移住地を賜りたいと訴えているのです。
その他、特筆すべきこととして、陶作部(すえつくりべ)の民を阿知が朝鮮半島に渡り連れてきたという記録があります。以降、泉北地域では須恵器(学名はsilla potter、つまり[新羅の器])の生産が盛んになり、石津川の水運を利用し、列島各地に須恵器が運ばれました。泉ヶ丘の大蓮公園内に当時の登り窯の跡があります。
「物の始めは堺から」という言葉がありますが、この伝統は阿知から、安羅伽耶から始まりました。